2009年05月28日
古見のスラ所跡?
先週末は久しぶりに泊まりがけで西表島に行ってきました。
暗くなってからの仕事だったので、昼間はレンタカーであちこち回って写真を撮り溜めてきました。
今回は以前から気になっていた「古見のスラ所跡」と言われているところについて、まとめておこうと思います。
![古見のスラ所跡?]()
西表島東部の空中写真です。
川の流れ込みや海底地形もよくわかります。
画面右上にはヨナラ水道を挟んで小浜島が半分見えています。
画面左下に流れ込む仲間川河口の北には大富、南側には大原の集落が見えます。
仲間川河口南側に仲間港(大原港)が開かれる以前は、画面中央の古見集落の北側、後良(シーラ)川河口右岸(南岸)が西表島東部と石垣島を結ぶ渡し船の船着き場だったそうです。
![古見のスラ所跡?]()
画面左の古見集落の南にはサキシマスオウノキの群落で有名な前良(メーラ)川、北側には後良川の河口が見えます。
後良川には沖のリーフの切れ目から河口まで繋がる水路があるので、船の出入りに都合が良かったのでしょう。
古見沖のリーフには不思議な形の深みが不規則に散らばっていますが、これは「川平湾の謎1」でも紹介したブルーホールでしょう。(一部には戦後干潟を浚渫してコーラルを採掘した跡も残っています。)
![古見のスラ所跡?]()
後良川の河口はやや複雑な地形になっています。県道の上流側で二股に分かれ、北側の橋を潜って干潟に出た流れはいきなり大きく蛇行して南側の流れと合流し、今回紹介するスラ所跡の崖を洗うように流れています。
![古見のスラ所跡?]()
青い矢印はかつての船着き場、赤い矢印はスラ所跡、そして、黒い矢印は鉄鉱石の採鉱所跡だと思われます。
そうそう、「スラ所」というのは造船所のことです。
琉球王朝時代に、西表の森から切り出した材木で沖縄島まで航海できるくらいの大きさの木造船を造っていたようです。
木造船の建造には大きな木材と船釘が必要ですが、ここでは船釘を作るための製鉄まで行われていたようです。
原料の鉄鉱石は、西表島の大部分を構成する八重山層群の細粒砂岩の中にできた酸化鉄のノジュール(団塊)で、スラ所跡の沖の干潟には、酸化鉄ののジュールをたくさん含んだ八重山層群の露頭が見られます。これが黒い矢印で示した「採鉱所跡」です。
黒い矢印の南には干潟の中に不思議な深みがありますが、これは戦後干潟を浚渫してコーラルを採掘した跡です。この浚渫跡の影響で、昔は運動会ができたくらい良く締まった砂地であった古見集落の南側の干潟は、ずいぶん泥っぽくなってしまったそうです。干潟に穴を掘ると潮の干満で干潟の泥が深みに溜まります。深みの底に溜まった泥は海が荒れたときに舞い上がり、沿岸流で集落南の干潟に運ばれたということなのでしょう。
さて、その古見集落ですが、柳田国男が最晩年にしたためた「海上の道」の中で稲作の伝播について沖縄の地名に触れ、「与那国・久米島・与那原など沖縄にはコメに由来する地名がたくさんあるが、古見はコメである。」というようなことを書いていたように記憶しています。(学生時代に読んだ本なので、記憶が曖昧ですが、この件に関しては後日確認出来次第書き直します。)
西部の祖納と並んで西表島で最も古い集落が古見ですが、ここに集落ができたのは、先に述べた船着き場以上に、この湧き水の存在が重要であると思われます。
![古見のスラ所跡?]()
![古見のスラ所跡?]()
泉の周辺はきれいに整備され、
![古見のスラ所跡?]()
海岸近くには御嶽もあります。
![古見のスラ所跡?]()
干潟にはマヤプシキ(ハマザクロ)というマングローブが生えていますが、最近大きな台風が続いたので、ずいぶん傷んでいますね。
![古見のスラ所跡?]()
![古見のスラ所跡?]()
ひっくり返っているのはオオハマボウ(ユウナ)の大木です。
![古見のスラ所跡?]()
干潟を北に歩いていくと、こんな不自然な風景に気付きます。
「川平湾の謎1」でもありましたが、琉球石灰岩の角礫の転石帯が、ここでは帯状に干潟の上に続いています。
これはきっと人工的なものでしょう。
おそらくスラ所に続く馬車道の名残でしょう。
![古見のスラ所跡?]()
転石帯は北の岩場の手前で沖に向かって枝分かれしているように見えます。
その先には、
![古見のスラ所跡?]()
なにやら干潟の中に八重山層群の露頭があるようです。
![古見のスラ所跡?]()
その露頭の方からスラ所跡の岩場を見ると、見事な転石帯で繋がっていることがわかります。
![古見のスラ所跡?]()
この露頭には酸化鉄のノジュールが特にたくさん見られます。
![古見のスラ所跡?]()
![古見のスラ所跡?]()
![古見のスラ所跡?]()
このノジュールなんか、赤く錆びた鉄そのものに見えます。
褐鉄鉱ですね。
![古見のスラ所跡?]()
一方こちらは、海岸の10m程度の高さの八重山層群の崖です。
崖下に広がる岩場のあちこちに、スラ所の痕跡が見られます。
![古見のスラ所跡?]()
岩場の全景はこんな感じです。細粒砂岩には割れ目(節理)に沿って茶色い酸化鉄の縞模様ができています。
![古見のスラ所跡?]()
いきなりですが、初めてこれを見たときは、なんだかゾクゾクッとしました。
![古見のスラ所跡?]()
これは、ポットホールと周りの石を利用した砥石ですね。
ポットホールの水溜まりで濡らした船釘を周りの石で研いだのでしょう。
![古見のスラ所跡?]()
こんな感じですね。
![古見のスラ所跡?]()
こんなものも転がっています。これは小さな溶鉱炉(キューポラ)で、鉄を作ったときにできた屑「鉱滓」ですね。
昔のたたら製鉄のような技法での製鉄だったのでしょうから、溶鉱炉というよりは、「甑」(こしき)といった方がいいでしょうか。
![古見のスラ所跡?]()
![古見のスラ所跡?]()
金属鉄を多く含んだ鉱滓には、このように磁石がくっつきます。(キーホルダーにネオジウム磁石を一個くっつけておくと、なにかと便利です。)
![古見のスラ所跡?]()
![古見のスラ所跡?]()
この岩場でもあちこちに酸化鉄のノジュールが見られます。
酸化鉄のノジュールには磁石はくっつきません。
![古見のスラ所跡?]()
岩場の北側は昔の船着き場に続く水路になっていて、
![古見のスラ所跡?]()
赤瓦や陶磁器の破片がたくさん散らばっています。
今でこそ人気のない村はずれですが、かつてここは重要な交易基地でもあったようです。
![古見のスラ所跡?]()
そんな岩場の一角に妙に赤味が強い石ころがまとまってありました。
![古見のスラ所跡?]()
これは焼かれた石のようです。どうやらここに「甑」(こしき)が有ったようです。
念のため、付近から石ころを二個頂いて帰りました。
![古見のスラ所跡?]()
左側は普通の細粒砂岩のかけらで、右側が甑跡から採取した赤味が強い石です。
左の普通の石ころを焼いてみました。
![古見のスラ所跡?]()
ここまで見事に赤くなってくれるとは思っていなかったので、驚きましたが、この色はやはり熱変成によるものですね。
![古見のスラ所跡?]()
これが、
![古見のスラ所跡?]()
こんなになっちゃったんですからね。
この実験で活躍してくれたのは、我が家の薪ストーブ「カルシファー君」です。
http://yaeyamanature.ti-da.net/e2240812.html
冷たい雨が降って薄ら寒いジメッとした日だったので、一時間ほどカルシファーに火を入れたら家の中がカラッと暖かくなりました。
![古見のスラ所跡?]()
帰りに、県道から旧船着き場付近を見ながら、かつてここが西表島の玄関であった頃の賑わいを想像してみました。
ところで、本当にここにスラ所があったのかは、じつはまだ確かめられていません。
だけど今回1時間半ほど時間をかけてゆっくり見て回ることができたので、個人的にはここにスラ所が有って、製鉄まで行われていたことを確信してしまいました。
このスラ所は、おそらく1771年の明和の大津波で壊滅的な被害を受けてその後再建されなかったのでしょう。
干潟の馬車道の跡も、建物の屋根を葺いていた赤瓦の破片も、甑や陶磁器の破片も、全ては夢の跡のようです。
暗くなってからの仕事だったので、昼間はレンタカーであちこち回って写真を撮り溜めてきました。
今回は以前から気になっていた「古見のスラ所跡」と言われているところについて、まとめておこうと思います。

西表島東部の空中写真です。
川の流れ込みや海底地形もよくわかります。
画面右上にはヨナラ水道を挟んで小浜島が半分見えています。
画面左下に流れ込む仲間川河口の北には大富、南側には大原の集落が見えます。
仲間川河口南側に仲間港(大原港)が開かれる以前は、画面中央の古見集落の北側、後良(シーラ)川河口右岸(南岸)が西表島東部と石垣島を結ぶ渡し船の船着き場だったそうです。

画面左の古見集落の南にはサキシマスオウノキの群落で有名な前良(メーラ)川、北側には後良川の河口が見えます。
後良川には沖のリーフの切れ目から河口まで繋がる水路があるので、船の出入りに都合が良かったのでしょう。
古見沖のリーフには不思議な形の深みが不規則に散らばっていますが、これは「川平湾の謎1」でも紹介したブルーホールでしょう。(一部には戦後干潟を浚渫してコーラルを採掘した跡も残っています。)

後良川の河口はやや複雑な地形になっています。県道の上流側で二股に分かれ、北側の橋を潜って干潟に出た流れはいきなり大きく蛇行して南側の流れと合流し、今回紹介するスラ所跡の崖を洗うように流れています。

青い矢印はかつての船着き場、赤い矢印はスラ所跡、そして、黒い矢印は鉄鉱石の採鉱所跡だと思われます。
そうそう、「スラ所」というのは造船所のことです。
琉球王朝時代に、西表の森から切り出した材木で沖縄島まで航海できるくらいの大きさの木造船を造っていたようです。
木造船の建造には大きな木材と船釘が必要ですが、ここでは船釘を作るための製鉄まで行われていたようです。
原料の鉄鉱石は、西表島の大部分を構成する八重山層群の細粒砂岩の中にできた酸化鉄のノジュール(団塊)で、スラ所跡の沖の干潟には、酸化鉄ののジュールをたくさん含んだ八重山層群の露頭が見られます。これが黒い矢印で示した「採鉱所跡」です。
黒い矢印の南には干潟の中に不思議な深みがありますが、これは戦後干潟を浚渫してコーラルを採掘した跡です。この浚渫跡の影響で、昔は運動会ができたくらい良く締まった砂地であった古見集落の南側の干潟は、ずいぶん泥っぽくなってしまったそうです。干潟に穴を掘ると潮の干満で干潟の泥が深みに溜まります。深みの底に溜まった泥は海が荒れたときに舞い上がり、沿岸流で集落南の干潟に運ばれたということなのでしょう。
さて、その古見集落ですが、柳田国男が最晩年にしたためた「海上の道」の中で稲作の伝播について沖縄の地名に触れ、「与那国・久米島・与那原など沖縄にはコメに由来する地名がたくさんあるが、古見はコメである。」というようなことを書いていたように記憶しています。(学生時代に読んだ本なので、記憶が曖昧ですが、この件に関しては後日確認出来次第書き直します。)
西部の祖納と並んで西表島で最も古い集落が古見ですが、ここに集落ができたのは、先に述べた船着き場以上に、この湧き水の存在が重要であると思われます。
泉の周辺はきれいに整備され、
海岸近くには御嶽もあります。
干潟にはマヤプシキ(ハマザクロ)というマングローブが生えていますが、最近大きな台風が続いたので、ずいぶん傷んでいますね。
ひっくり返っているのはオオハマボウ(ユウナ)の大木です。
干潟を北に歩いていくと、こんな不自然な風景に気付きます。
「川平湾の謎1」でもありましたが、琉球石灰岩の角礫の転石帯が、ここでは帯状に干潟の上に続いています。
これはきっと人工的なものでしょう。
おそらくスラ所に続く馬車道の名残でしょう。
転石帯は北の岩場の手前で沖に向かって枝分かれしているように見えます。
その先には、
なにやら干潟の中に八重山層群の露頭があるようです。
その露頭の方からスラ所跡の岩場を見ると、見事な転石帯で繋がっていることがわかります。
この露頭には酸化鉄のノジュールが特にたくさん見られます。
このノジュールなんか、赤く錆びた鉄そのものに見えます。
褐鉄鉱ですね。
一方こちらは、海岸の10m程度の高さの八重山層群の崖です。
崖下に広がる岩場のあちこちに、スラ所の痕跡が見られます。
岩場の全景はこんな感じです。細粒砂岩には割れ目(節理)に沿って茶色い酸化鉄の縞模様ができています。
いきなりですが、初めてこれを見たときは、なんだかゾクゾクッとしました。
これは、ポットホールと周りの石を利用した砥石ですね。
ポットホールの水溜まりで濡らした船釘を周りの石で研いだのでしょう。
こんな感じですね。
こんなものも転がっています。これは小さな溶鉱炉(キューポラ)で、鉄を作ったときにできた屑「鉱滓」ですね。
昔のたたら製鉄のような技法での製鉄だったのでしょうから、溶鉱炉というよりは、「甑」(こしき)といった方がいいでしょうか。
金属鉄を多く含んだ鉱滓には、このように磁石がくっつきます。(キーホルダーにネオジウム磁石を一個くっつけておくと、なにかと便利です。)
この岩場でもあちこちに酸化鉄のノジュールが見られます。
酸化鉄のノジュールには磁石はくっつきません。
岩場の北側は昔の船着き場に続く水路になっていて、
赤瓦や陶磁器の破片がたくさん散らばっています。
今でこそ人気のない村はずれですが、かつてここは重要な交易基地でもあったようです。
そんな岩場の一角に妙に赤味が強い石ころがまとまってありました。
これは焼かれた石のようです。どうやらここに「甑」(こしき)が有ったようです。
念のため、付近から石ころを二個頂いて帰りました。

左側は普通の細粒砂岩のかけらで、右側が甑跡から採取した赤味が強い石です。
左の普通の石ころを焼いてみました。

ここまで見事に赤くなってくれるとは思っていなかったので、驚きましたが、この色はやはり熱変成によるものですね。

これが、

こんなになっちゃったんですからね。
この実験で活躍してくれたのは、我が家の薪ストーブ「カルシファー君」です。
http://yaeyamanature.ti-da.net/e2240812.html
冷たい雨が降って薄ら寒いジメッとした日だったので、一時間ほどカルシファーに火を入れたら家の中がカラッと暖かくなりました。
帰りに、県道から旧船着き場付近を見ながら、かつてここが西表島の玄関であった頃の賑わいを想像してみました。
ところで、本当にここにスラ所があったのかは、じつはまだ確かめられていません。
だけど今回1時間半ほど時間をかけてゆっくり見て回ることができたので、個人的にはここにスラ所が有って、製鉄まで行われていたことを確信してしまいました。
このスラ所は、おそらく1771年の明和の大津波で壊滅的な被害を受けてその後再建されなかったのでしょう。
干潟の馬車道の跡も、建物の屋根を葺いていた赤瓦の破片も、甑や陶磁器の破片も、全ては夢の跡のようです。
Posted by 谷崎 樹生 (たにざき しげお) at 03:46│Comments(4)
│自然観察
この記事へのコメント
私も,個人的にはここにスラ所が有って、製鉄まで行われていたことを確信してしまいました。あの砥石もそうですけど,時空を超えた論の展開にゾクゾクッ クラッですわ。
Posted by sazae at 2009年05月28日 18:03
P.S. 3枚目の写真,海になにやら赤い筋状のものがあるよう な。。。?赤土でもなさそうですし。。。いったい?
Posted by sazae at 2009年05月28日 18:17
今年は旧暦の五月が二回あるそうで、五月の初めに吹く北寄りの風(ヨウカニシ)も二回吹くのかもしれませんね。
最近風がひんやりすると思ったら、偏西風の吹き方も今年はちょっと変ですね。ベンガル湾からの雲の流れも北回りになっているようで、こんな年の梅雨の天気は読めませんね。
ゾクゾクッとすると思ったらヨウカニシが冷たいからかも?風邪かな?
3枚目の写真の赤い帯び、見つかってしまいましたね。
話が長くなるから触れずにおいたのですが、(すでに充分長すぎて、そういう次元の問題ではなくなっていますが・・・)
あの赤い帯はたぶんサンゴの大産卵の名残、スリックとかウナジュラというものでしょう。
最近風がひんやりすると思ったら、偏西風の吹き方も今年はちょっと変ですね。ベンガル湾からの雲の流れも北回りになっているようで、こんな年の梅雨の天気は読めませんね。
ゾクゾクッとすると思ったらヨウカニシが冷たいからかも?風邪かな?
3枚目の写真の赤い帯び、見つかってしまいましたね。
話が長くなるから触れずにおいたのですが、(すでに充分長すぎて、そういう次元の問題ではなくなっていますが・・・)
あの赤い帯はたぶんサンゴの大産卵の名残、スリックとかウナジュラというものでしょう。
Posted by 谷崎 樹生 (たにざき しげお)
at 2009年05月28日 23:29
at 2009年05月28日 23:29谷崎さんの使用された航空写真は何時撮影されたものでしょうか。国土交通省の航空写真で同所を見ると谷崎さんが馬車道と想像している箇所がはっきり写っていて干潟の浚渫穴につづいています。その穴は谷崎さんの写真より小さいことから、まだ掘っている時期だと思います。この写真は1977年撮影だと思うので、スラ所への馬車道ではなく、陸から浚渫した道路ではないでしょうか。あの場所は干潟ですので船で運び出すのは難しく陸路を使ったのではないでしょうか。
馬車道に角礫を敷き詰めると馬の蹄を傷めます。むしろそのまま砂地を歩かせるでしょう。
また、甑跡と云われる焼け石ですが、あんな干潟の近くに築くでしょうか。
集落内に鍛冶屋があったはずです。
などなど疑問を感じました。
馬車道に角礫を敷き詰めると馬の蹄を傷めます。むしろそのまま砂地を歩かせるでしょう。
また、甑跡と云われる焼け石ですが、あんな干潟の近くに築くでしょうか。
集落内に鍛冶屋があったはずです。
などなど疑問を感じました。
Posted by ushumai at 2009年07月02日 00:21
























