2024年12月11日
津波石巡り
11月27日に真栄里老人クラブの方々を案内して「津波石巡り」をしてきました。
私は、1974年に琉球大学の生物学科に入学し、初めて沖縄に来ました。
初めての土地では地図を買って地理を把握するようにしています。
当時はネットもスマホも無かったので、アナログな紙媒体の情報が全てでした。
沖縄の地図を読んでいて驚いたのは「津波」(ツハ)という地名が沖縄島の各所にあることでした。
津波さんという苗字の方もいらっしゃいます。
「えらいとこに来てしまったなぁ」と思ったものでしたが、宮古・八重山には津波という地名はありません。
これはいったいどういうことなのか?
宮古・八重山では津波石と呼ばれている大岩が各所にあり、最近の研究では数百年に一度は大岩を動かすほどの大津波があったことがわかってきました。
ところが、沖縄島では津波はあったものの集落を壊滅させるほどの大津波ではなく、若干の犠牲者は出たものの多くの人は生き残り、津波の記憶を風化させないように地名として残したのではないでしょうか。
今回の津波石巡りでは、先ず公民館で1771年の明和大津波を中心に八重山の地震・津波のレクチャーを30分ほどしてからマイクロバスで伊原間まで津波石や慰霊の塔など津波関係の史跡を巡ってきました。
レクチャーで使った資料を以下に貼り付けます。
(サムネイルをクリックすると大きく表示されます。)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
さて、以前から津波には興味はありましたが、なかなかまじめに勉強していなかったので、この機会に勉強させてもらって、いろいろ興味深いことがわかりました。
どうやら、琉球海溝の陸側斜面(北側)で横ずれ断層が動いて大規模な海底地すべりが起こり大津波が発生した。というのが明和大津波の真相のようです。津波は石垣島の南南東方向から押し寄せたようです。
この海底地形図で気になるのは、海底地すべりでグシャグシャになった琉球海溝の陸側斜面の西側に2本の断層らしい線がクッキリと見えることです。
⇓〇で囲った部分です。
次の大地震でここの断層が動いて大規模な海底地すべりが起こったら、今度は南南西方向から大津波がやってくることになるのでしょう。
黒島や竹富島が津波防波堤になって市街地の被害は軽減されるかもしれませんが、覚悟は必要ですね。
もう一つ気になったことは、真栄里集落の道路事情です。
昔ながらの街並みが残る真栄里集落は道路が碁盤の目のように整備されていますが、道幅は昔のままなのでしょう。普通車が一台やっと通れるような狭い所もあります。
昔は荷馬車が擦れ違えることができれば充分だったのでしょうが、このような狭い道路では地震で石垣が崩れたり、ブロック塀が倒れたりしたら自動車は走れなくなってしまいます。
歩いて産業道路以北の高台(海抜20m)を目指していたら津波に流されてしまいます。
近くの三階建て以上の建物に垂直避難して命を守っていただきたいものです。
昔ながらの街並みは真栄里だけでなく他の集落でも見られます。
石垣が崩れ、ブロック塀が倒れたら救急車や消防車も来てくれなくなってしまうという最悪の事態を想定して、死なない工夫をしておかねばなりません。
明和大津波で人口が半減した石垣島では、震災後の復興のために離島から住民の強制移住が行われたそうです。真栄里集落では住民の77%が失われたので黒島や鳩間島から強制移住させられた方々と23%の生き残りの方々で復興が進められたそうです。
それでも石垣島の人口は津波後も減り続け、津波以前の規模にまで回復したのは150年後の大正時代になってからのことでした。
津波による農地の荒廃・生産力の低下・害虫の大発生・疫病の流行・社会の混乱などが人口の回復を遅らせたようです。
東北や能登の現状を見ると、大災害後の復興が如何に困難なことであるかがわかります。
数百年ごとに大津波に洗われる運命にある島に住んでいる私たちは、次の大災害と復興のために今何をなすべきかを考え、実行せねばなりません。
私は、1974年に琉球大学の生物学科に入学し、初めて沖縄に来ました。
初めての土地では地図を買って地理を把握するようにしています。
当時はネットもスマホも無かったので、アナログな紙媒体の情報が全てでした。
沖縄の地図を読んでいて驚いたのは「津波」(ツハ)という地名が沖縄島の各所にあることでした。
津波さんという苗字の方もいらっしゃいます。
「えらいとこに来てしまったなぁ」と思ったものでしたが、宮古・八重山には津波という地名はありません。
これはいったいどういうことなのか?
宮古・八重山では津波石と呼ばれている大岩が各所にあり、最近の研究では数百年に一度は大岩を動かすほどの大津波があったことがわかってきました。
ところが、沖縄島では津波はあったものの集落を壊滅させるほどの大津波ではなく、若干の犠牲者は出たものの多くの人は生き残り、津波の記憶を風化させないように地名として残したのではないでしょうか。
今回の津波石巡りでは、先ず公民館で1771年の明和大津波を中心に八重山の地震・津波のレクチャーを30分ほどしてからマイクロバスで伊原間まで津波石や慰霊の塔など津波関係の史跡を巡ってきました。
レクチャーで使った資料を以下に貼り付けます。
(サムネイルをクリックすると大きく表示されます。)
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さて、以前から津波には興味はありましたが、なかなかまじめに勉強していなかったので、この機会に勉強させてもらって、いろいろ興味深いことがわかりました。
どうやら、琉球海溝の陸側斜面(北側)で横ずれ断層が動いて大規模な海底地すべりが起こり大津波が発生した。というのが明和大津波の真相のようです。津波は石垣島の南南東方向から押し寄せたようです。
この海底地形図で気になるのは、海底地すべりでグシャグシャになった琉球海溝の陸側斜面の西側に2本の断層らしい線がクッキリと見えることです。
⇓〇で囲った部分です。
次の大地震でここの断層が動いて大規模な海底地すべりが起こったら、今度は南南西方向から大津波がやってくることになるのでしょう。
黒島や竹富島が津波防波堤になって市街地の被害は軽減されるかもしれませんが、覚悟は必要ですね。
もう一つ気になったことは、真栄里集落の道路事情です。
昔ながらの街並みが残る真栄里集落は道路が碁盤の目のように整備されていますが、道幅は昔のままなのでしょう。普通車が一台やっと通れるような狭い所もあります。
昔は荷馬車が擦れ違えることができれば充分だったのでしょうが、このような狭い道路では地震で石垣が崩れたり、ブロック塀が倒れたりしたら自動車は走れなくなってしまいます。
歩いて産業道路以北の高台(海抜20m)を目指していたら津波に流されてしまいます。
近くの三階建て以上の建物に垂直避難して命を守っていただきたいものです。
昔ながらの街並みは真栄里だけでなく他の集落でも見られます。
石垣が崩れ、ブロック塀が倒れたら救急車や消防車も来てくれなくなってしまうという最悪の事態を想定して、死なない工夫をしておかねばなりません。
明和大津波で人口が半減した石垣島では、震災後の復興のために離島から住民の強制移住が行われたそうです。真栄里集落では住民の77%が失われたので黒島や鳩間島から強制移住させられた方々と23%の生き残りの方々で復興が進められたそうです。
それでも石垣島の人口は津波後も減り続け、津波以前の規模にまで回復したのは150年後の大正時代になってからのことでした。
津波による農地の荒廃・生産力の低下・害虫の大発生・疫病の流行・社会の混乱などが人口の回復を遅らせたようです。
東北や能登の現状を見ると、大災害後の復興が如何に困難なことであるかがわかります。
数百年ごとに大津波に洗われる運命にある島に住んでいる私たちは、次の大災害と復興のために今何をなすべきかを考え、実行せねばなりません。
Posted by 谷崎 樹生 (たにざき しげお) at 02:20│Comments(0)
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